歴史・文化|上下エリア
安福寺 あんぷくじ
6 月にはあやめが咲き乱れる、別名「あやめ寺」
天保年中(1532~1555年)頃、矢野小石というところに一寺が建立されていたといわれています。
その後江戸時代に入り、鉄舟祖源和尚が寺域を現在地に変えて再建し、本師上下村善昌寺二世一通達傳和尚を招請して曹洞宗安福寺として開山、現在に至ります。本堂前の二本の松(双龍の松)はその時に植えたものと伝えられています。
現在の本堂庫裏は、昭和8年から11年にかけて山岡儀平氏が大願主となり、十方施主により再建されたものです。
安福寺は別名あやめ寺として知られるほか、境内には南北朝時代の石造宝篋印塔(県重要文化財)や宝塔(市指定重要文化財)、悲しい伝説の残る義農仁兵衛(ぎのうにへい)と庄三郎の墓塔(指定重要文化財)があります。石造宝篋印塔は高さ1.16m で、塔身には金剛界四仏の種子が刻まれ、古さと型の点では、県内でも数少ない石造物です。昭和38年(1963年)に県重要文化財に指定されています。
義農仁兵衛の伝承
安福寺には裏手の墓地内に高さ1.75mの笠塔婆型の立派な墓があり、義農仁兵衛と庄三郎が埋葬されています。義農仁兵衛と庄三郎らは兄弟で、当時広島藩の上下町矢野小田辺に住んでいました。ある時作物などの不作による飢饉があり、年貢軽減を広島藩ではなく福山藩へ直訴したところ、要求は通ったもののその罪により延宝4年(1676年)3月8日に打ち首にされました。その頃の苛酷な圧政に農民は苦しんでおり、この苦しみを直訴し処刑された兄弟の冥福を祈って、恩恵に浴した村人たちは墓石塔を建立したと伝えられています。
【Profile】
名称 | 安福寺 |
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所在地 | 広島県府中市上下町矢野23 |
問合先 | 電話:0847-62-3523 |
【Access】
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